第百七話「オルタナティブ・スペースのつくりかた」

オルタナスペースの運営は孤独との闘いである。学校や会社でもない。企業が付いて運営スタッフに恵まれているわけでもない。その場で生まれた成果も「お金」や「進学」といった、目に見えるものでもない。非常に曖昧な存在なのである。

オルタナスペースが意義を持つかどうかは「別にやらなくてもいい事を、どれだけ真剣に取り組めるかどうか。どれだけ自分を犠牲にできるかどうか」で決まって来ると思う。私の場合、大学時代の友人を中心に、大変スムーズに運営をスタートできた。しかし、一時的な盛り上がりや、飽きてすぐ終わってしまう、そんな危険をはらんでいた。実際そうやって消えていったスペースはいくつもある。仲良しで終わらせてはならない、と思う私がメンバーに掛ける言葉や指示は、どうしても公の言葉となってしまい、友人としての距離はどんどん遠くなっていってしまった。それはどんな苦労よりも苦しかった。事情を理解してくれる察しの良い友人もいるが、私の言動に反発する人間もいる。 それでも理想のアトリエが出来る過程を体験したり、企画した展覧会やライブを通して人間関係が化学反応を起こす様を見たりすると、この上ない幸せを感じる事ができた。私はそれでよかった。まったく不満はなかった。

創作とはそういうものだと思う。もし、孤独感を恐れるようになってしまったら創作に対する気持ちが弱くなっている、という警告だと受け取ればよい。私自身、完璧にそれをこなしてきたかと言うと、全くそうではない。闘いに勝ったり、負けたり、であった。実際、最初の2〜3年、私のやり方はひどいものだった。

これからその友人達に、友人として声を掛けるのことができるのかと思うとドッと肩の荷が降りた。そして8年間のstudio BIG ARTという活動で思った事は、オルタナスペースには他の組織にはない可能性がいっぱい潜んでいるということ。その可能性をこの8年間ではまだまだ引き出しきれなかった。これからまた次の闘いの準備をしようと思う。

もし、こんなオルタナ活動を目指している人たちがいたら一言アドバイスをしたい。有志のオルタナスペースがそんなに長く続くわけがない。だからちょっとの間くらい、孤独と闘いながらやってみるのも悪くない。きっと何にも邪魔されずに創作というものと向き合える場所ができると思う。それが長く続けばそれに越した事はない。もし、どうしようもなくなったら辞めて、また準備すればいい。その繰り返しでいいと私は思う。

「別にやらなくてもいい事」をどれだけやれたか? きっと自分が死ぬときに自問自答するだろう。これからも、もっとそういう気持ちを忘れないようにしよう。そして、時代を超えて残っていくものを、一つでもつくる事ができれば最高ですね。





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